V 呉中央卸売市場の開場と活動 1

1.敗戦直後の混乱と復興への胎動

 敗戦から1か月後の昭和20(1945)年9月17日から18日にかけて来襲した枕崎台風により、呉地方は、死者だけで1154人という空前の被害をこうむった。台風の爪痕もなまなましい10月6、7の両日にわたってアメリカ第10軍団を中心とする占領軍が広湾から上陸、このうち呉と広地区に約8000人づつが配備された。ところがアメリカ軍にかわり軍事的治安をオーストラリアのノースコット中将を総司令官とする英連邦占領軍(イギリス本国・オーストラリア・ニュージーランド・インドなどの混成軍)が担当することとなり、21年2月1日から呉港に入港した。呉には、アメリカ軍の中国地方軍政部・広島県軍政部(昭和24年7月1日以降、軍政部は民事部と改称)と、中国・四国地方の軍事的治安部隊を統括する英連邦占領軍司令部がおかれた。

 戦時最盛時40万人をこえたといわれた人口は、15万人へと激減した。呉市の復興は旧軍事施設の活用以外にはありえなかった。昭和21年4月から呉海軍工廠跡地に株式会社播磨造船所呉船渠と尼崎製鐵株式会社呉作業所、広の旧第11海軍工廠にも20年から21年にかけて、川南工業株式会社広製作所と広島鉄道局工機部広分工場がGHQの許可をえて進出した。また23年1月1日にいたり呉港は開港場の指定を受け、この年の9月25日、呉港に放出物資の小麦粉5000トンをつんだ最初の外国船ルーベン・チップト号(1万トン)が到着、食糧難に苦しんでいた市民に大きな歓迎をうけている。21年ごろから悪化した食糧事情はなかなか解消されず、危機的状況におかれたのであった。

 こうしてようやく復興のきざしがみえたと思われたのもつかの間、昭和23年5月には沈没艦艇の引揚げならびに解体作業が、2、3か月もすれば完了する見通しとなり株式会社播磨造船所呉船渠の事業はおおはばに制限された。他の工場も賠償指定工場であるという制約に加えて、行政整理や経済不況が重なり、のきなみの縮小や閉鎖においこまれた。加えて23、24年ころともなると、英連邦占領軍の引揚げが都築、そこにおいて職をえていた多数の市民が路頭にまようこととなった。呉市は、「失業モデル都市」といわれる程、多くの失業者をかかえることになったのであった。
 こうした苦境を打開するため、呉市は、横須賀・佐世保・舞鶴と協力し旧軍港市転換促進委員会を結成した。そして旧海軍施設を平和産業に転換することを目的とする「旧軍港市転換法」の国会通過をかちとり、昭和25年6月4日の住民投票をへて6月28日に公布施行をみている。「旧軍港市転換法」の施行とほぼ同じ25年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争による特需は、不況にあえいでいた呉市の企業に起死回生の妙薬の役割を果たした。ただその反面、硝煙のにおいが市内にあふれ、多くの犯罪に悩まされたのも事実である。

 「旧軍港市転換法」の制定と特需ブームを背景に、旧軍施設への企業誘致もようやく軌道にのることになった。呉工廠跡には、日亜製鋼株式会社呉工場、株式会社淀川製鋼所呉工場などが進出した。また既存企業の株式会社播磨造船所呉船渠は、NBC呉造船部と、全額播磨造船所の出資によって設立された株式会社呉造船所に分割された。一方広の旧11工廠には、東洋パルプ株式会社呉工場、中国工業株式会社が進出した。川南工業株式会社広製作所は、一時休業ののち、26年12月7日には広造機株式会社として再出発している。広島鉄道局工機部広分工場の跡地には、一時、鞆伸鉄工業株式会社が進出したが失敗に終わり、31年5月12日から地元の寿工業株式会社が操業を続けている。こうしたあいつぐ企業進出により、昭和20年代後半には、呉市は生産県への道を進む広島県の中核的工業地帯となり、失業問題と財政難に悩まされながらも復興もようやく軌道にのることになる。