II 呉市勢の進展と市場の発生 2

呉市制の実施 呉鎮守府開庁にともない急増した呉港の人口は、日清戦争時の27年には2万7717人、28年には3万1567人へと急上昇することになる。人口の増加は以後も衰えることなく、呉市制が実現した35年には6万113人を数え、42年に10万2072人と10万人をと突破する。なお、呉市の人口は、海軍軍人、呉工廠の「職工」に独身者が多かったことを反映して、つねに男性人口が女性人口を大きく上回っている。

呉海軍の発展にともなって、近代的な商工業もみられるようになる。明治28(1895)年の中央勧商場を契機として40年までに8か所の勧商場、29年の呉貯蓄銀行(のちの沢原銀行)をはじめとして42年までに10行の銀行、25年の高田商会につづき、大倉組、三井物産、シーメンス社などの海軍の物品を納入する商事会社があいついで開店している。工業も28年に児玉繃帯(ほうたい)材料が設立、31年に高須罐詰が江田島から移転、44年に阪田製作所(のちのセーラー万年筆)が設立、安政3(1856)年創業の三宅酒類醸造場が明治35年に清酒醸造にのりだし、短期間のうちに全国屈指の酒造メーカーに発展するなどの特筆すべき事業がみられる。

このように、日清戦争移行、呉の商工業はめざましい発展をみせた。しかし、この時期の呉海軍と人口の伸張に比較すると、それは、微々たる存在にすぎなかった。しかも商業の場合、卸売業が少なく、銀行は預金吸収的が強く、海軍への大手納入業者は大都市の大手商社に独占され、工業は海軍に納入する消費財や小型製品に限定されるという、新興軍港地としての宿命を背負っている。こうして消費都市としての性格は、劇場や寄席、旅館・料亭、検番や遊廓の繁栄によってさらに強く印象づけられることになる。なおこの時期、36年12月27日に呉線、42年10月31日に広島県下で最初の市街電車が開通するものの、南を海に面したほかは三方を山に囲まれた陸の孤島という軍区の持つ陸上交通の弱さが解消されたわけではなく、それが商工業に発展を素が阻害することになる。

このような呉港の発展は、必然的に宮原村・和庄町(明治25年に町制施行)・荘山田村・吉浦村の合併と市制の実施を促すことになった。明治35年1月26日、広島県の要請により、各町村の代表者が集まりこの問題に対する会合が開催された。ここで江木千之知事は、呉港が呉鎮守府の所在地として地形的に一体を形成しているのもかかわらず、政治的に区分されているのでは不便でありこれ以上の発展はのぞめないと、4か町村合併による市制施行をつよく希望した。この知事のすすめにしたがって、ただちに呉市制期成同盟会が設立され、合併の準備がなされた。そして、35年10月1日、和庄町・荘山田村・宮原村と、吉浦村から川原石・両城地区を分離して35年4月1日に誕生していた二川町が合併し、呉市が誕生したのであった。