5. 中通市場の変遷と活動
中通というと、いきなすずらん灯の輝く、呉市を代表する盛り場というイメージが強い。しかしそれは3丁目から9丁目までの顔であり、中通には1,2丁目にもう一つの市場としての役割があったのである。この中通市場は、すでにのべたように、、明治40(1907)年、2丁目に株式会社青物魚市場がせつりつされた頃から本格的に形成されたものである。中通市場は交通の便に恵まれたこともあって、明治後期から大正期には呉市一の卸売市場となった。ただ、大正後期から昭和初期にかけて、海岸通の埋立地に魚類、青物問屋が設立されるにいたり、中通市場は広・昭和など近郊内陸部と鉄道輸送による青物を中心とする卸売市場に性格をかえる(中通の魚市場は昭和4年4月に自然消滅している)。この中通1,2丁目の問屋街は、昭和13年1月7日の火災後新装されたが、20年7月1日の空襲により、灰燼(かいじん)を帰すことになる。なお、図3は火災にあう直前の中通市場の状況を再現したものである。

先に昭和前期の中通の呉青物魚市場には、主に近郊農村と鉄道輸送による青物がもちこまれたと述べた。このうち広村のカンランなど近郊からの野菜は、直接生産者が大量のものは馬車で、少量の場合は荷車や天秤棒でかついで朝早く市場に運び、各地方からのものは朝6時ごろ呉駅に到着すると、駅の仲仕が荷車に積んでそれを犬に引かせて市場に配達したといわれている。7時ごろには買い出し人(呉市においては仲買制度は採用されておらず、実際には合友会加盟の小売人が市場で取引できる権利をもっている)が来て、売買が開始されるわけであるが、遠隔地のものは、ほとんど委託販売なのに対し、地物は厚司の下に互いに手を入れて値段を決定するという「そでの下」といわれる相対売買がなされたのである。このように本来の意味の仲買人せいどが採用されていなかったこともあって、市場は取引が終了するまで、立錐のよちもないほどの混雑だったという。なお、青物の場合、海岸通の市場の様子も、ほぼ同様の状態であったといわれている。
ここで青物取引をめぐっておこった問題点に少しふれておくことにする。まず、問屋と「仲買人」との関係についてであるが、昭和3年6月16日には、中通の呉座において、呉市と安芸郡および、賀茂郡の青物・乾物・罐詰の「仲買人」の同業組合といて合友会が発会している。この合友会が、中通市場内の青物問屋に対し「(1)合友会を認め以降は素人および料理屋、宿屋には絶対に取引せぬこと、(2)市場内の道路修理の件、(3)全員名札掲載の件」(『呉新聞』)の3点の要求をおこなったことに端を発して、川原石の青物問屋もまきこむ深刻な争議に発展したが、10月21日に商工会議所の調停で解決している。