6. 小売り市場の動向
商店街がどちらかといえば、高級な衣料品を中心とする専門店がよそおいをこらして整然とならんでいるというイメージをあたえるのに対して、市場は食料品をはじめとする日用品がところせましと雑居している様子を連想させる。軍港都市にして労働都市の呉市民の大どこっろに直結する市場は、前掲の表5にみるように、昭和13(1938)年当時18か所にのぼっており、そのうち消費者に直接に関係する小売市場が10か所を数えている。
呉市の市場と言えば、東泉場と言われるように、泉場町と曙町の通称である東泉場は、呉市における小売市場の代表的存在であった。このことは表5にあるように、泉場町と曙町の市場の利用者を合計すると、1日3万人のぼるということからも明らかである。このように繁栄をほこるにいたった東泉場は、本通や中通にややおくれて、明治35(1902)年に魚市場が開設されたのを契機として小売市場を形成するようになったのであった。
東泉場の商人には、他地方、とくに伊予からの商売人が多かったという。彼らはこれまでの商品としての経験をいかすとともに、すすんで港湾都市としての類似性をもつ神戸や、労働都市としての同じ性格を有している北九州の諸都市など、先進都市に修業に出かけたという。そして、自らの商売にそれを生かし、たがいが切磋琢磨の努力をして新鮮な商品をできるだけ安く販売するという商法を生み出したのだった。
こうした商法と、本通9丁目から山手にむけて左にそれる1間から1間半(約1.8メートルから2.7メートル)のせまい道にそってならぶ商店街は、本通・中通に近く遊郭への通り道でもあるという立地条件に恵まれたこともあって、大正期から昭和期へとすすむにしたがって東泉場を形成する。労働都市ということもあって東泉場商法は市民に歓迎され、人が人をよびそれによって新鮮な商品をさらに安く販売しうるようになったといわれる。さらにこうした人をあてこんで、食料品のほかに食堂・古着屋・貸本屋・質屋・薬屋・はきもの屋などの店が、ぎっりしとならぶようになったのである。東泉場においては、毎日のように夕食用の買物がはじまる3時から5時ごろともなると、市内の主婦が殺到し足の踏み場もないほどの混雑が繰り返されたのである。商品を日光から守るためにはられたテントが大部分を占める間口の狭い店内からは、つぎのような威勢のよい売り声がとびかっていたといわれる。
……ええ、買ひなれ、買ひなれ、奥さん買ひなれ……うちの店はもうけておらぬ、……それもその筈だ……うちに帰つたら金がざくざく仕様がない程あるわいな……商売せんでも食ふのに差支へる貧乏人ぢゃありません、……さあ奥さん、性分で働かんと飯がうまくないから卸で買つた値で売つて……売つてゐるのぢゃないかな……どれでもこれでも10銭ぢゃ……まけて欲しけりゃまけてやる……鯛が1尾8銭ぢゃ、……小鯛が1尾8銭ぢゃ……金なしさんにはわけてやる、……たゞでもいらぬか、欲しゆないか……