3. 中央卸売市場開場の準備
中央卸売市場の必要性を痛感した呉市は、川原石地区に青果物等と鮮魚市場、広町に分場を開設すという構想を樹立した。そして青果物等の市場にあてるため、昭和23(1948)年1月12日、広島軍政部長にあてて、「市場建設予定地域の土地返還方」を陳情した。海岸通2丁目50番地先(昭和32年築地町となる)は戦前は呉海軍工廠の魚雷調整工場として利用されていたが、戦後英連邦占領軍に接収されており、中央卸売市場の開設にはこの施設の返還が不可欠だったわけである。
占領軍に施設の解放を陳情した呉市は、中央卸売市場建設に必要な資金を全額起債によってまかなうこととし、昭和23年度に360万円、翌24年度に300万円の起債の許可をえた。しかし、肝心の新市場予定地の返還交渉は、容易に進展しなかった。そのようなわけで、まず、広分場の建設にとりかかることになり、24年3月30日に工事が開始され、同年7月31日をもって竣工をみたのであった。
昭和24年8月22日、英連邦占領軍より、先に陳情した市場建設予定地のうちの一部を返還するという内諾があり、直ちに正式書類を提出するようにという指示を受けた。ただし変換予定地に通づる連絡道路の使用については、許可が下りなかった。海上輸送のみでは市場としての機能が発揮しえないと考えた呉市はねばり強く交渉をつづけ、とうとう25年2月12日をもって道路使用を許可するとの回答に接することが出来たのである。
中央卸売市場開設の最大の問題点を解消した呉市は、昭和25年3月13日に、「呉市中央卸売市場開設許可申請書」を作成、25日に農林大臣に提出、5月16日に許可書が広島県を経由して届けられた(「昭和二十五年第6回呉市議会(定例会)会議録」などによる)。全国で11番真野中央卸売市場であった。この間3月20日には、いよいよ市場の工事が開始された。かつての呉海軍工廠の魚雷調整工場が事務所、売り場に加え、銀行・信用組合・郵便局が入居できる施設に改造され、屋外に連絡通路と荷揚場が整備され9月30日に竣工した。
ところが第1期工事が完成しつつあった昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発、朝鮮派遣軍を編成することになった英連邦占領軍は、一度返還に応じた3棟のうち東側の1棟(約438坪)を再接収する旨呉市に通告してきた。このため当初計画が変更され、付属売店などの施設については後日に延期せざるをえなくなってしまった。また青果部等が入る新市場と並行して、生鮮水産部が使用するための呉市魚市場の改装もなされた。このように紆余曲折はあったものの工事が進展したこともあって、25年10月24日に、呉市議会において、海岸通2丁目の本場と広町末広新開の分場を開設するという「呉市中央卸売市場設置条例」と、「呉市中央卸売市場業務条例」が可決されている。
中央卸売市場については、各界より英知を集めて運営することとし、昭和25年11月17日に、「呉市中央卸売市場運営審議会」(久保健一委員長)を設置した。
学識経験者1人、市会議員7人、業界代表8人、消費者代表3人の19人から構成されるこの審議会の状況については、その概要が「呉市中央卸売市場沿革」に記載されている。それによると開場にいたるまでの間に5回の審議会が開かれている。
そのうち第2回の審議会では、前述の業務条例から削除された仲買人制度の設置を望む意見が提出されたが、呉市の実情にそぐわないとして、しばらくの間はみおくることが再確認されたという。これは水産卸売業者の、呉市においては、「仲買人制度の導入は無理」であり、「中央卸売市場への移行をどうしても実現したいと市当局が考えるのであれば、仲買人制度の導入は思いとどまるよう措置すべきである」(『卸売市場制度五十年史』第3巻)という主張を採用した結果であると述べられている。
昭和25年11月25日の第4回審査会において、呉市魚市場の営業権の帰属をめぐって呉市と水産物卸売業者の間で論争があったが、結論は出なかったという。さらに12月11日に開かれた第5回審議会において、鮮魚3、青果5、海産乾物6、漬物2、合計16の公認卸売人自覚者を決定し、その卸売人の部屋割りを審議した。この点は、「業者の生命線である丈に議論も沸騰し、白熱的な論戦が交わされた」ものの結論を出すまでにいららず、結局、正、副委員長に一任ということになった。前途多難を思わせたこの問題も正、副委員長の懸命な斡旋で解決され、12月15日には広島県知事により公認卸売業者の許可をえるにいたったのであった。ただここまで話し合っても、水産物卸売業者が中央卸売市場への参加するというまでにはいたらなかったようである。