呉市魚市場の開設
呉市の鮮魚問屋が1社に合併されることになったのは、大正15(1926)年4月7日に制定された「広島県魚市場規則」第10条において、「一市町村内ニ於ケル魚市場ハ一ヵ所トス」と規定されたことを契機としている。加えて呉市の鮮魚問屋の間では、不況の深刻化とともに売掛金未回収のまま魚市場を変えられるなどの問題があり、広島県の勧奨により合併機運が醸成されたのであった。昭和3(1928)年2月24日、資本金120万円の呉水産株式会社の創立総会が開催された。なお、この呉水産の母体となったのは、海岸通1丁目の呉魚市、海岸通3丁目の富島魚市場、西本通1丁目の池田魚市場、三城通1丁目の呉魚市場、海岸通1丁目の共同魚市場の5社である。
記述が少し前後するが、昭和2年1月11日には、会社設立の準備を進めていた魚市場5社の代表者が呉市役所を訪問し、大規模な魚市場を私企業が建設するには無理があるので公設市場を開設してほしいと要望した。これをうけて呉市は、市営の魚市場開設を決意、この魚市場は、途中営業権を呉市に譲渡するにさいして支払う報酬金7万円をめぐって政治問題化したり、建設費のねん出がおもうようにすすまなかったりしたため、予定よりおくれはしたものの、2年11月25日に着工し、翌3年28日をもって落成をみたのであった。新装なった魚市場はモルタル2階建ての近代的な建物で、「氷室冷蔵庫の設備もある市営市場としては関西一」の設備を有していた。なお、この費用は工事費3万3000余円、設備費約7000円、合計4万余円といわれている。
呉市魚市場の状況 昭和3年4月1日をもって、呉市魚市場は海岸通2丁目56番地に開業した。ところが市民がまちのぞんだ魚市場であったが、3年6月には請負業者の呉水産と「仲買人」(呉市魚市場においては、仲買制度は採用されていないので、市場に入場できる小売鮮魚商のこと)とのあいだで、手数料と歩戻金をめぐって対立が表面化することになる。先に示した大正15(1926)年4月7日の「広島県魚市場規則」の第22条において漁民保護を目的として手数料と歩戻金が制限されたにもかかわらず、呉市の魚市場ではそれ以降も従来通りの手数料1割2分、歩戻金3分という慣行が踏襲されているのであるが、市が魚市場を経営することを契機として「広島県魚市場規則」が厳守されることになり、「仲買人」への歩戻金がなくなり、かれらの不満が爆発したわけである。
呉市魚いちばにおいては、当初よりせりが採用されている。ただ、青物市場と同様仲買人制度がなく、小売人がせりに参加したため、非常に混雑することが多かった。また、川原石港への夜間航行が禁止されていたこともあって、せりが朝9時頃になってやっと開始されたといわれている。せりが終了すると小売人のなかには、海岸通の道路で魚を売り、それから自分の店に帰りまた商売をする人が多かったという。この周辺に小売鮮魚店が少なかったという事がこうした商売を可能にしたわけであるが、付近の住民はこれを川原石の東泉場とよび重宝していたわけである。なお、昭和6年にいたり、呉水産内に水産物の円滑なる供給と魚価の安定供給をはかるため、冷蔵庫が設置された。とくに当時は、海軍の需要が非常に多くなり、軍艦が急に入ったりしたときに不足するのに備える必要があったわけである。