III 呉軍港の繁栄と影 2

民衆運動の躍動と都市化の進展 第1次世界大戦とその後の軍備拡張により、呉市には軍需景気がもたらされた。

呉工廠労働者の賃金は、第1次大戦以来、熟練工を中心に人手不足を反映して大正3(1914)年に1か月の平均賃金が23円であったものが、9年に65円を記録するなど「職工成金」とか「職工黄金時代」といわれる程に急上昇する。そして注目すべきことは、不況期においても、10年に58円に下落したものの、その後は漸増し昭和3(1928)年に79円を記録することである。また、退職金・遺族扶助金などの年金・救済金や病院。購買所などの施設の完備も労働条件の改良に一定の役割を果たしたといえよう。

呉市に軍需景気をもたらした第1次世界大戦は、一方で深刻な物価騰貴をもたらした。とくに米価急騰への不満が強く、大正7年8月13日から15日にかけて、呉市において、数万人の群集が米穀商や富豪を襲撃したのに対し軍隊が鎮圧にのりだすなど、米騒動の嵐が激しくふきあれた。その後も呉市の民衆運動は、8年2月27日に3000人を集めて、普通選挙期成大会が開設されるなど大きなもりあがりをみせる。なお13年3月15日、2万人の組合員を構成員とする呉官業労働海工会が誕生した。また広工廠の労働者1800人により広廠工僚会が結成されるが、両組合は、大量の「職工」整理を追認するなど、穏健な組織であった。

この時期の呉市の人口は、大正元年の11万7560人が9年に14万9733人に上昇したのちワシントン軍縮の影響で10年に14万2111人に減少、以降不況のため停滞する。しかし昭和3年には阿賀・警固屋・吉浦の3町との合併により17万6234人まで回復、その後は軍縮の影響でのびなやんだものの、満州事変以降は急上昇し11年には24万107人を記録する。こうした人口の増加は、生徒数の増加による教室不足、伝染病の流行、住宅不足、交通難など多くの都市問題をもたらした。しかし、市民にとっては、失業から解放され、豊かとはいえないまでも、それなりにはなやかな年の消費生活を楽しむことのできた恵まれた時間であった。とくに艦隊入港時には、料亭や朝日遊郭街、カフェー・喫茶店のならぶ麗女通りなどの花街や、映画館の多い千日前などがにぎわった。このころともなると、中通を中心とする盛り場には、地方都市にはめずらしいモダンな喫茶店、豪華な設備をほこる料亭・カフェー・映画館、しゃれた感じの洋装店。レストラン。パン屋・ビリヤード場などが所狭しと並んでいたという。そして、こうした繁栄のなかで、文化とスポーツが隆盛をきわめたのである。

年の瀬のせまる繁華街(中通5丁目)
昭和前期<友定正章氏提供>

昭和10年の3月から5月にかけて、国防と産業大博覧会が開催された。非常時の国防意識の高揚をスローガンに掲げながら、大規模な余興も多く、入場者数も70万9588人を記録するなど、呉市民にとっては忘れることのできないはなやかな博覧会であった。また11月24日には、呉~三原間の鉄道も開通するなど、記念すべき年となった。しかしながらこうした興隆をみながらも、「消費都市から産業都市」へという市是が実現されたわけではなく、海軍工廠をのぞくと市内にこれといった工場がなく、商業も小売業は発達したもの、代理店や卸売業が弱いといった状況がいぜんとして続いていったのである。地元商人が勢力を維持していた卸売業は唯一、食料品関係だけだったのである。