III 呉軍港の展開と市場の発展

1. 呉軍港の繁栄と影

呉海軍の変転 大正3(1914)年7月28日に第1次世界大戦が開戦となり、8月23日には日本も参戦し、呉軍港からも艦隊が出動した。呉海軍工廠においては、船舶修理工事に追われる毎日がつづいた。このころには、海軍の拡充計画も、8・4艦隊計画(大正5年の第39帝国議会で可決)へと前進した。こうしたなかで8年11月9日には、世界で最初の16インチ主砲をつんだ戦艦「長門」(3万3800排水トン)が8・8艦隊計画の1番館として進水した。10年11月に開催された海軍軍備制限条約によって、主力艦保有量の比率を5(米):5(英):3(日)に制限された。これによって8・8艦隊計画によって建造されていた主力艦は「陸奥」を除いて廃棄され、呉工廠の「職工」の退職、下士官と水兵の退団がつづいた。とくに11年10月から4次にわたり、広工廠も含め6417人に達した「職工」の整理は深刻で、呉市においては呉失業保護保護協議会を組織するなど、再就職に努力がはらわれている。

満蒙権益擁護市民大会(二河公園)
昭和6年11月15日<中邨末吉氏>

ワシントン軍縮条約から10年後の昭和5(1930)年に、これまで対象外におかれていた補助艦の削減を目的とするロンドン軍縮会議が開催され、アメリカに対する日本の保有量の割合を6.975割(重巡洋艦6.02割、潜水艦10割)とする内容の条約が調印された。これによって、6年4月には「職工」の役20パーセントにあたる3723人が解雇された。呉市は、商工会議所などとともに軍縮整理失業同盟会を結成して失業対策にとりくんだ。しかしながら当時は、深刻な恐慌期であり、商工業関係への就職がおもうようにすすまず、大山のふもとの鳥取県西伯郡名和村への集団移住が実現し、大きな波紋をなげかけたりしている。こうした二度にわたる大規模な軍縮整理により大正5年に2万1835人、10年に3万4095人と増加した「職工」数は、昭和元年に2万136人と激減、6年には1万6801人へと繁忙時の半分以下となった。

昭和6年9月18日の夜10時30分ころ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖において、南満州鉄道株式会社(満鉄)の線路爆破事件が発生した。日中間の戦火は、7年1月、上海に飛び火した。この満州事変と第1次上海事変の発生により、呉海軍工廠は、繁忙につぐ繁忙の毎日を送っていた。臨時職夫の募集が毎日のように行われ、5年に1万7371人であった「職工」11年には3万947人(うち臨時職工・職夫は8934人)を数える程になった。

大正10年1月15日、呉市の郊外、当時の賀茂郡広村に航空機と機関の研究・製造・修理を目的とする呉海軍工廠広工廠が開庁、航空機部・造機部・機関研究部・会計部でスタートした。広工廠は、12年4月1日に広海軍工廠として独立し、その後、機関・航空機という、もっとも時代の先端をいく技術の開発にとりくみ大きな成果をあげている。