I 呉鎮守府の設立と近代的商業の胎動 1

1.呉鎮守府の設立

呉にとって明治16(1883)年は画期的な年となった。この年の2月12日から7月25日まで、「第2丁卯(ていぼう)」(艦長・東郷平八郎少佐)に乗船した肝付兼行少佐一行によって広島県から山口県にかけての海岸の測量が実施され、これまでの平穏な村落が、世界的な軍港へと変貌を遂げる出発点となったからである。

呉浦の住民は、肝付少佐一行が呉湾を測量するのを見て不思議に思い、百石船がきたと大騒ぎをしたという。住民の驚きがさめやらぬ明治19年5月4日には、第2海軍区鎮守府が呉浦に設置されることが決定した。呉は湾内が浅すぎもせず深すぎもせず、湾の入り口が狭すぎもせず広すぎもせず、周囲を山年まで囲まれているため風波もおだやかで、3か所ある船の出入口のうち、音戸の瀬戸と早瀬の瀬戸は非常に狭く、大屋の瀬戸は付近の島に砲台を築調することによって敵艦隊の侵入を防ぐことが可能であり、まさに防御に適した軍港にうってつけの地と評価されたのであった。
第2海軍区鎮守府の位置に呉浦が決定して間もない明治19年8月から開始された用地の買収は、宮原村・和庄村・荘山田村・吉浦村を対象に24年までつづけられ、およそ148町歩、29万3700円におよんだ。用地買収が進む中で、19年11月26日、鎮守府工事の起工式がおこなわれた。22年7月1日、呉鎮守府が開庁(開庁式は明治天皇の臨幸を待って明治23年4月21日に挙行)、初代鎮守府司令長官に、中牟田倉之助中将が任命された。すでに5月28日には「石川」以下の13隻の艦艇が配属され、また6月23日には横須賀鎮守府において訓練を受けてきた水兵360人が到着するなど、呉港は急速に軍港としての性格を強めた。